写真帖

スエデンボルグや道元による真理を写す手帖

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お金や名誉では得られない真の幸福である
自由や平安、心の健康や永遠の生命を得る為の
スピリチャルな知識を紹介します

2013年03月

人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。自分を救うのは自分しかいないのです。誰も救ってはくれないのです。 神は人間に〝疑う心〟を植えつけております。真実性を確かめるための批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真

まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。 しかるに我々は思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ、と。 しかし彼は我々の罪のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。 彼は自ら懲らしめを受けて、我々に平安を与え、その打たれた傷

その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。 その彼も、当時の宗教界の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたものは平凡な民衆だけでした。 彼を通じて霊力がほとばしり出

教義については実際は以下のようになっている。 すなわち信仰の基礎として人間的なものが、すなわち、感覚に、記憶知に、合理的なものにぞくしたものが存在しているに比例して教義は益々無力なものに、また空虚なものになるのである。 しかし感覚に、記憶知に、合理的なも

つねに終りを忘れず、過ぎ去った時間のふたたび帰らぬことを記憶せよ。 熱心と勤勉とがなければ、決して徳を積むことはできないのである。熱心で勤勉な人は、どんなことにも用意ができている。  罪悪や情欲に抵抗することは、肉体(からだ)の労働(はたらき)に汗を流す

主の功績と義とは、純粋に神的なものである故、到底それは転嫁によって如何なる天使にも人間にも移譲されることは出来ない。神的な火花の閃光でも彼等に触れるならば直ぐに彼らは苦悶の中に死ぬであろう。 ここから、何人も神を見て生きることはできないというイスラエル教

「なぜならわたしは家を掃いたからです」 これは凡ゆるものが整えられて、善に満ちたことを意味していることは以下から明白である。 すなわち、『掃く[掃除する]こと』の意義は整えて[準備をして]、満たされることであり、『家』の意義は善である。人間自身は、その

祈りはそれ自身において観察されるなら、神と語ることであり、そのとき祈りの事柄を内的に観察することであって、それに対し心の中へまたは思考へ注がれる流入のようなものが答えられ、それで神に向かって人間の内部が或る程度開かれるが、しかしそれは人間の状態に従ってお

人間は自分自身を強制して善いことを行い、主から命じられていることに服従し、真理を語らなくてはならないのであり、それが『主の御手の下に自分自身を卑しくする』ことであり、または神的な善と真理の至高の権能[力]に自分自身を委ねることであるということは、僅かな言

寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、悲寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。 いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよ

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