写真帖

スエデンボルグや道元による真理を写す手帖

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お金や名誉では得られない真の幸福である
自由や平安、心の健康や永遠の生命を得る為の
スピリチャルな知識を紹介します

2017年11月

人間が(霊的な)真理へ導かれ、真理から善へ導き入れられている間に、彼が学ぶ凡てのものは彼には明確なものではない。 しかし、善が彼に連結されつつあり、彼が真理を善から見つめると、その時はそれは彼に明らかとなり、しかもそれは継続的に益々明らかとなって行く。
『霊的な真理が明らかになる過程』の画像

或(ある)が曰(いは)く 「ただ仏法はもとより自己にありと知る、これを得道の全円とす。この他さらに他人に向かいて求むべきにあらず。いはんや坐禅弁道をわづらはしくせんや。」 この言葉、最も儚(はかな)し。 もし汝(なんじ)が言ふごとくならば、心あらんもの誰
『空虚なものではない仏法の妙術』の画像

真の信仰は、そのことが真であるために「そうである」と承認すること以外の何ものでもない。 なぜなら、真の信仰にいる者は、考えて『これは真である、だから私はそれを信じる』と言うからである。   一般的に、霊的な問題は超自然的なものであるため、誰にも把握出来な
『考えて「そうである」と承認する真の信仰』の画像

虚栄心から自尊心の段階を全部乗り超えると最大の難関に立ち向かう。 まだ謙虚になることと執着を手放す必要がある。 つまり、愛情を共有する際に寛大になるという、尊大の段階で乗り越えるべき目標が残っているのだ。 尊大な魂は、平均的な魂と比較すると大変進化した
『自己の欠点を呼び覚ます厳しい状況』の画像

天使が直接に悪い者を凝視するとき、こうした苛責(かしゃく)が生み出されることは驚くべき事実である。 すなわち、主(神、天使)が特別に臨在されるときは、こうした苦悶と拷問が起り、モーセが民数記10・35に言うように、その際『主の敵は散らされ』、『主を憎悪す
『天使の視力による呵責と苦悶』の画像

理解と諦(あきら)めは全く異なる。 諦める者とは、匙(さじ)を投げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。 「もうどうでもいい」と生きる希望を失い落ち込むのだ。 諦めは「苦しみを避けるために頑張らない」というやり方だが、この方法では、もっと苦しむこと
『死に対する理解と諦めの違い』の画像

本日は色々な夢を見たようです。が、朝、目覚める直前の以下の場面のみを覚えています。 仕事が終わって帰るために駅前広場で小型バスに乗車しました。 バスが動き出すと視点が変化し、私は屋根の上の最前部に立っていることに気づきました。 バスの屋根の高さは30m程
『バスの高い屋根の上で揺られる夢』の画像

合理的な人は自然的な人の中にある悪を見て認識でき、そしてもしそれが純粋な合理的なものであるならば、それはそれをこらしめることもありうる。 この二つのものが連結しない間は、人間は人間そのもの(完全な人間)ではありえず、また平安の静謐の中にいることはでき
『理性・良心に順応・連結する自然的な本能』の画像

本日朝、目覚める直前の夢です。 農民のような男性から「きれいな服を着た男女3人が学校の体育館で人々を集めている」という話を聞いたので、私は学校への道を歩いています。 周囲は田園風景であり、草原には牛や馬がいます。 突然、場面が変わり、目の前に馬の顔
『馬人間が歌う「How do We know?」の夢』の画像

合理的な人間は、人がその唇だけで「自分は罪人である」と告白し、偽善者のように語ることは悔改めではないことを知ることが出来る。 人間が困苦と苦悶の中にある時に、溜息をつき、呻き声を立て、自らの胸を打ち、自らは一つの罪も意識しないけれど「凡ゆる罪を犯し
『実際の悔改め』の画像

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