教会の知的なものとは信仰の真理何であるかを、また仁慈の善何であるか聖言から認識する事である。
教会の知的なものは、人間が聖言を読んで、一つの記事を他の記事と入念に比較する時、何を信じ何を為すべきかを認識する事に在る

この知的なものは主によって明るくされている者の中にのみ、基督教世界においてもまた明るくされている者と呼ばれる者の中にのみ見出される。
この明るくされる事[照示]は、名声と栄誉の為ではなく生命と用(役立ち、奉仕、仕事)の為に真理を知ろうと欲する人間の中にのみ見る事ができる。
この明るくされる事そのものは人間の知的なものにより受け入れられる。

明るくされるものは人間の知的なものである。
この事は知的なものを殆ど持たない者達は聖言からそのようなものを到底認める事ができず、その者が明るくされている者だと信じる者を信じているという事実から極めて明白である。
さらに再生している者達は、明るくされる事ができる知的なものを主から受ける事を知られたい。

知的なものに流れ入って、それを
明るくするものは主から発している天界の光である。
知的なものはそれ以外の源泉からは、その光を、その視覚を得ない為、従ってその
認識を得ない。 

上記はスエデンボルグからの抜粋です
教会の知的なものは、生命と用(役立ち)の為に、真理を知ろうと欲する人間にのみ得られます。
生活を改善し、他者への役立ちの為に聖言を読む時、真理は知的に認識されます。
しかし、自己の名声や教会の利益の為に聖言を読む時には、信仰義認というような誤謬を真理であると勘違いします。

殆どの人間は自分の力で聖言を理解する事は困難である為、教職者が真理でない誤謬(
信仰義認など)を流布する事は危険です。
「信じるだけで救われる」という信仰義認を確信すると、自己の生命の状態を点検せず、改善の努力もしない為、聖言が教える地獄も天界も知る事ができません。
しかし、愛に満ちた心と素朴な心さえあれば、日常生活の中で善意の霊(天使)の働きを感知し、永遠の生命(天界の生命の状態)を信じる事も可能です。
永遠の生命を心から信じれば、現世的な事柄や肉体の死を恐れる事は少なくなり「信仰」と「義認」の実情を理解できると思います。