かれらは教会に、また信仰にぞくしているいくたの事柄について自分自身を整えようと、すなわち、自分自身を改良しようとねがうのであり、そうしたものが改良されつつある者たちの最初の状態である。 しかしかれらが真理をまたは信仰を知る知識にさらに進むと、そのときは、
2013年05月
善と真理とを攻撃する悪と誤謬
わたしは地に平安をもたらすために来たと思ってはならない、わたしは平安をもたらすために来たのではない、剣をもたらすためである。 わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとに争わせるために来たのである。 人の敵はその者自身の家族の者となるであろう。
有名な宗教指導者
「わたしらはわたしらのために名を作ろう」。 これは、かれらがそれによって権力に対する名声を得ることができるであろう、を意味していることは、『自己に名を作ること』の意義から認めることができよう。 なぜならかれらは人は各々何かを礼拝しようとのぞんでいること
真理の霊
主から発出している神的な霊的なものは聖言では『真理の霊』と呼ばれていて、聖い真理であり、それは何れかの霊のものではなくて、主によって遣わされた霊を通して来ている主のものであり、そのことはヨハネ伝の主御自身の言葉から認めることができよう― かれが、
貴方が神秘に触れるための行為
人は神秘を学べば、何か道が開けると思いがちです。 しかし、霊的神秘は言葉で伝わるものではなく、貴方がその神秘に触れるための行為によるのです。 世の全ての書を読み、知識を知り尽くしても、人は依然無力ですが、それに至る道は唯一つ、貴方の日常生活如何です。
思い煩わないで確信している
善の中に生きて、主は宇宙を治め、生命は主から発し、かくて私たちは主から生き、動き、存在していると信じている者は、天界の自由を与えられ、それとともに平安を与えられる状態の中にいるのである。 なぜならそのとき彼はひたすら主のみを信頼し、他の事柄を思い煩わな
霊的試練による解放
187.再生しつつある者のみが霊的試練を受ける。 なぜなら霊的試練は善と真理とにいる者たちのもとに悪霊により引き起こされる心の苦痛であるから。 その悪霊らが悪を刺激すると、そこに試練の不安が生まれる。 その起源を知らないため、人間はこの不安が何処から来るか
宗教の戒めに従って生きる
たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。 しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない。 それらは主により命
全的な服従
「わたしたちも、わたしたちの土地もパロの僕として生きましょう」(出エジプト47・19)。 これは全的な服従を意味していることは以下から明白である。 すなわち、『わたしたちとわたしたちの土地』の意義は善と真理との容器であり、『僕』の意義は人間自身のも
盲目的信仰
この凡てから信仰と真理とは一つのものであることが明白である。 こうした理由から古代人は信仰とは言わないで真理と言うのを常としたのであり、また、真理と信仰とはヘブル語では同一の語となっており、すなわち、アムーナまたはアーメンとなっている。 しかし、真理が