生死の中に佛あれば、生死なし。(夾山&定山)生死を離れんと思わん人、正に、この旨(むね)を明らむべし。只、生死すなわち涅槃(ねはん)と心得て、生死として 厭うべきも無く、涅槃として願うべきも無し。 この時、初めて、生死を離るる分あり。 生より死に移る、と心得
道元「正法眼蔵&隋聞記」
神の国を第一に求めれば、力も入れず仏となる
何よりもまづ、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの物はみな加えて与えられる。だから、明日の事まで思い悩むな。(マタイ6.33-34)仏道を習うというは、自己を習う也。自己を習うというは、自己を忘るゝなり。自己を忘るゝというは万法に証せらるゝなり。万法に
功徳(利益)を求めた宗教活動は否(ネガティブ)
初祖(達磨)、梁武(武帝)と相見(しょうけん)するに、梁武問う。「朕(われ)、即位より已来(このかた)、寺を造り、経を写し、僧を度する事(こと)多々、何の功徳(くどく)か有る」師曰く、「並びに功徳無し」帝曰く、「如何(いか)なるか是れ真の功徳」師曰く、「
扇を使い仏家の風を聞く
麻浴山宝徹禅師、扇を使うちなみに、僧来りて問う、「風性常住、無処不周なり、何をもてかさらに和尚扇を使う」。師曰(いわ)く、「汝(なんじ)ただ風性常住を知れりとも、未だ所として至らずという事無き道理を知らず」と。僧曰く、「いかならんかこれ無処不周底の道理」
身命を顧みず正法(真理)を学び修行する
義によりて身命を軽くす、殉死の礼、忘れざるが如(ごと)し。恩に使われる前途、ただ暗頭の雲霧なり。小臣に使われ、民間に身命を捨てる者、昔より多し。惜しむべき人身なり、道器と成りぬべき故(ゆえ)に、今、正法に会う、百千恒沙(ゴウシャ)の身命を捨てても、正法を参学
大海不宿死屍(宇宙に死は存在しない)
「大海不宿死屍」は仏祖の正教なり。凡聖の教えにあらず、付仏法の小教にあらず。大海とは包含万有なり。なにものと知れるにあらざれど、しばらく万有なり。不宿死屍とは明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不変心なり。死屍と言うは、全て人々、
尽十方界、身にて学道する生死去来
身学道と言うは、身にて学道するなり、赤肉団の学道なり。身は学道より来たり、学道より来れるは、供(とも)に身なり。尽十方界是箇真実人体なり、生死去来真実人体なり。この身体を廻(めぐ)らして、十悪を離れ八戒を保ち、三宝に帰依して捨家出家する、真実の学道なり。
自己を忘れ万法に証せられる仏道
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの物はみな加えて与えられる。だから、明日の事まで思い悩むな。(マタイ6.33-34)仏道を習うとは、自己を習う也(なり)。自己を習うとは、自己を忘れるなり。自己を忘れるとは、万法に証せられるなり。万法に証
時至れば受用する般若(真理を把握する知恵)
我が国の人、いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法を示すとも、甘露かへりて毒となりぬべし。名利におもむき易く、惑執とらけ難し。しかはあれども、如来の正法、本より不思議の大功徳力を備えて、時至ればその刹土に広まる。人まさに正信修行すれば、利
行持によりて諸仏の大道通達す
仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環してほとけ断絶せず、発心修行菩提涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。この故(ゆえ)に、自らの強為にあらず、他の強為にあらず、不曽染汚の行持なり。この行持の功徳、我(われ)を保任し、他を保任す。その宗旨は、わが